沈思黙考 - mute_muse
多弁なココノエさんの奥さんはサチコさんという。彼は語る。
「ぼくは名字のおまけなんだ」
二人の出会いは、ある酒の席で、議論をふっかけてばかりいたココノエさんの襟首を引っ掴み、その唇にサチコさんがそっと人差し指を当てたことに始まるらしい。サチコさんは生まれつき、他者の耳に聞こえる声を持たない人だった。彼女のこの行動を、まわりは<黙って>という意思表示だと受け取ったが、ココノエさんはその時、サチコさんの"声"が脳裏に閃くのを感じたという。
――大丈夫。ここにあなたを傷つける人間はいないから。だから、少し、休んだほうがいいわ。
「見事にぼくは読まれてた。不安だからこそ、ぼくは喋るんだ。壁を作るために」
ココノエさんは手を開いたり握ったりした。
「ぼくはその時まで、会話は相手を打ち負かす戦いだと思ってた」
言葉で表現できることは、事象の限界点だけなのよ、それ以上のことは夢芥だし、コミュニケーションはその限界点の相互掲示でしかない、とサチコさんは語った。この意見に言葉の可能性、すなわち理論武装の威力を誰よりも信じていたココノエさんは反論したが、標本箱にピンで貼り付けられた蝶みたいに、サチコさんの静かな声に論点を押さえられ、矛盾を突かれた。しかし、その後味は実にさっぱりとしたものだった。ココノエさんはサチコさんの意見を聞き入れることが、恥や悔しさにつながらないことに驚いた。サチコさんはニッ、と獰猛に笑った。
――言葉は拳銃みたいに突きつけるものじゃないわ。
「え?」
――収穫するもの、拾い上げて差し出すものよ。
みんな、拾っているの。いつも色んな喜ばしいものを拾っているのよ。だれもが一部分は富んでいるし、だれもが一部分は貧しいのよ。自明の事だから、誰も言わないだけ。
エウレーカ! この言葉が人類全体をさしていた事を、愚かなココノエさんが理解したのは二ヶ月もあとのことである。
二年後に二人は結婚することになるのだが、その理由が名字なのだ。
サチコさんはサトウという名字だった。いわば、スミスみたいな極々ありふれた名字だ。あなたと結婚するのはその美しい名字が欲しいから、とサチコさんははっきりと恋人に告げた。
「他に理由は? 例えば、ぼくの性格とか、ぼくとの相性とか、収入とか」
ソファーで編物をしていたサチコさんは片方の眉をすぅっと涼しげに上げた。
――その要素のどこにあなたの実体があるというの。
「でも、普通は性格がいいとか、そういうものが決め手に」
途端に、ココノエさんは宇宙の停止を思わせるサチコさんの沈黙に包まれた。
――人は変わる。
あるいは、熟れたりんごは、いずれ、りんごでなくなる。
サチコさんは半熟なココノエさんよりもはるかにハードボイルドな人生を生きてきたのだ。
ぼくの価値は名字だけか、とうなだれたココノエさんをソファーに残し、サチコさんは台所にスタスタといってしまった。やがて、ちりん、と小さなベルの音でココノエさんは呼ばれた。昼下がりの光と甘酸っぱい香りと共に、アイスクリームを添えたあつあつのアップルパイとカバーをかぶせたティーポットがテーブルの上で待っており、サチコさんはふわっと柔らかな春の空気をまとっていた。この風景にココノエさんは嬉しくもやるせない気分になった。ぼくはこんなにも彼女に惚れてるのに、彼女はぼくじゃなくて、ぼくの名字に惚れてるんだ。薫り高い琥珀色の液体をカップに注ぎながら、サチコさんはポツリと言った。
――ともあれ、胃袋がふたつになったのはいいことだわ。
「どうして?」
――パイを焼くのに、ひとりだからどうしよう、なんて迷わなくて済むもの。
「ぼくの価値は名字と胃袋だけかい?」
――まさか。どうすれば、人の価値を一言にまとめられるというの?
つまるところ、と紅茶のカップをココノエさんに手渡し、サチコさんは絶対の確信を持って言った。
――わたしたちは胃袋を増やしたり減らしたりしているだけなのよ。
エウレーカ! この声が人類全体と、サチコさんのなかにあるふたつめの胃袋を指していたことに、哀れなココノエさんが気付くのは、三ヵ月後のことである。以来、ココノエさんはサチコさんを愛し、サチコさんは自分のものとなった、この美しい名字を愛している。もちろん、名字の元の持ち主である夫も愛している。ただ、自明の事なので、声に出さないでいるだけだ。
04_01_2006
ミュート・ミューズ、mute_museという語呂を思いついて、題名に使いたかっただけという。
夫婦別姓も素敵ですが、相手の名字の響きや字面が好き、というのもありだと思ったので。
サチコさんは策士です。ふふふ。
あと、アルキメデスちっくに、エウレーカ!(我、発見せり、わかった)って言ってみたかっただけです。
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